Rolling Stone 2021/10/25
記者: JON BLISTEIN
ジャーナリストで作家のDan Ozziは、新刊『Sellout』の中で、ニュージャージーのパンクバンドの初期の日々を紹介しました。
新刊『Sellout : パンク、エモ、ハードコアを席巻したメジャーレーベルの介入狂騒曲(1994年〜2007年)』では、著者のDan Ozziが何十年にもわたって世界の偉大なパンクバンドを悩ませてきた、レコード契約を結ぶべきか否か?という困難な決断について考察しています。
Selloutは、Nirvana以降のパンクシーンにメジャーレーベルが大きな契約と多額の資金を携えて乗り込んできたことで、バンドやファンの間で信憑性や独立性をめぐる激しい議論が巻き起こったことを具体的に検証したものです。Green DayやBlink-182、At the Drive-In、Thursday、Against Me!など11のグループが、パンクの基本理念とメジャーレーベルの可能性との間でどのように取り組んだかを、バンドメンバーや関係者のインタビューをもとに検証し、この虚構の界隈での成功と失敗を分析しています。
「Sellout: The Major Label Feeding Frenzy That Swept Punk, Emo, and Hardcore (1994-2007)」が10月26日(火)にHarperCollins社のMariner Booksから出版されます。Ozziは、この本の出版を記念して行われる2つのイベントに出演します。11月6日にブルックリンのSaint Vitusで、11月11日にロサンゼルスのPermanent Records Roadhouseで開催されます。
*日本からの購入はこちら
https://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/B08B32P5B2/ref=tmm_kin_swatch_0?ie=UTF8&qid=&sr=
**
サラ・ルウィティンは、パリセード・パークウェイ を疾走する母親のトヨタ・カムリの助手席に座り、テスト勉強のように『All You Need to Know About the Music Business(音楽ビジネス必読書)』のページを必死にめくっていた。My Chemical Romanceのマネージメントをすることになった21歳の彼女は、ニューヨーク州北部にあるナダ・レコーディングスタジオで行われるバンドのレコーディングに母親に送ってもらいながら、自分が手に負えない状況にあることを悟っていた。
ルウィティンとバンドのつながりは、その3年前にアメリカ・オンラインでUltragrrrlというスクリーンネームで音楽ファン仲間との交流を深めたことに始まる。ある日、彼女がメンバーディレクトリーからBlur、Oasis、Radiohead、Placeboを検索すると、MikeyRaygunというスクリーンネームのユーザーのプロフィールが表示された。そのアカウントの持ち主は17歳のマイキー・ウェイで、昼間はスーパーで買い物かごを並べる仕事をしていて、夜は両親のソファで寝ていると話していた。2人はお勧めの音楽を紹介しあったり、軽いインスタントメッセージをやりとりするようになり、彼女には彼が賢くて面白い人だと分かった。数ヵ月のメッセージのやりとりの後、ついに彼女は実際に会うことを提案した。
「私達はお互いの顔を知らなかったんです」とルウィティンは振り返る。「たしか彼は、自分はレオナルド・ディカプリオに似ていると言われたことがあると言っていました。彼が送ってくれたのは顔の半分だけのぼやけた写真で、会いに行くのにそれしかありませんでした。彼に初めて会ったのは、ウエスト・ビレッジにあるウエスト・フォー・ストリート駅の外にあるスターバックスでした。でも、メールやメッセージでおしゃべりしていた人と、実際に会った人は全然違ってました。彼はとても痛々しいくらいシャイだったんです」。
しかし、その臆病さの中にもウェイには野心があることをルウィティンは感じていた。「マイキーと一緒にホットトピックやヴァージンメガストアみたいなところに行ったとき、彼はこう言っていました。『俺はいつかああいう雑誌に載って表紙になって、ランチボックスにも載るんだ』。私が彼に会った時から、彼はビジョンを持っていたんです」と彼女は言う。
10代の2人は数ヶ月間は恋人同士だった。ウェイはパストレインで、ルウィティンはニュージャージー州テナフリーの実家からバスに乗ってマンハッタンに行っていた。「私たちはニューヨークのあらゆる街角でイチャイチャしていました」と彼女は言う。何時間ものデートは、彼女が本当に話したかった男の子は外向的なMikeyRaygunであることから目をそらすための手段だった。「それにね」彼女は付け加えた。「彼はすごくキスが上手かったんです」。
ルウィティンは最終的に、オンラインバージョンの魅力的なウェイに実際に会うことはできないと受け入れ、2人の関係に終止符を打った。でも友情は続けようと固く誓った。その後、彼女は音楽業界での仕事を始めたため、彼から数年間連絡を受けることはなかった。しかし2001年秋のある夜、彼女が実家の寝室に座っているとコンピュータの画面にMikeyRaygunからのメッセージが表示された。
「彼は私に連絡してきて、『兄さんとバンドを始めるんだ。きみは気に入らないかもしれないし好みじゃないかもしれないけど、俺はすごくワクワクしてるんだ』と言ってくれました」と彼女は振り返る。ルウィティンは、彼女が知っているウェイが好きな音楽を模した曲を期待していた。彼女の言葉を借りれば「準SF的で未来的なブリットポップっぽいやつ」だ。しかし、彼から送られてきた「Skylines and Turnstiles」と「Cubicles」という2つのMP3は、彼女が期待していたものとは全く違うものだった。「彼の言うとおり、私が聴いていたようなものではなかったけど、とても素晴らしかった。指で触れることもできないような直感的なものでした。ものすごいエネルギー、ものすごい興奮、ものすごい考えに溢れていて、すぐに心をつかまれました」。
ウェイは、ジェフ・リックリーを説得してプロデュースしてもらうアルバムに取り組んでいることを自慢していた。「私はジェフを知っていました。その時点で音楽業界で働いている人ならThurdayのことを知らない人はいませんから。彼らは次のNirvanaになる準備をしていたんです」とルウィティンは言う。彼女はウェイにバンドのマネージメントをさせてほしいと懇願し、彼は他のメンバーと話し合ってから同意した。彼女にはマネジメントの経験はなかったが、「私なら絶対に成功させられると思ったんです」と言う。彼女が無償で働いてくれることも魅力的だった。
My Chemical Romanceは2001年10月、ニュージャージー州ユーイングのエルクス・ロッジで、彼らの友人のフランク・アイエロがフロントを務める勢いあるハードコアバンドPencey PrepとアイエロのいとこのバンドMild 75の前座として、初ライブを行った。マイケミのメンバーは初めての公の場での演奏に緊張して、事前にビールを1ケースも飲み干して緊張を落ち着かせた。勇気を出して約40人の観客を前にして「Skylines and Turnstiles」に飛び込み、駆け足で歌い終えた後で観客の様子を見てみると、彼らが見る限りでは観客は喜んでいるようだった。実際、観客は彼らを気に入っていた。
「ハコの中は衝撃的だったよ」とアイエロは振り返る。「後ろのグッズ売り場の椅子に立って、彼らの演奏を見てたことを覚えてる。みんな酔っ払ってたけど、それでも凄かった。いつレールから外れてもおかしくないような感じだったけど、なんとかまとまってた。たぶん20分くらい演奏していたかな。Smithsのカバー「Jack the Ripper」も演ってた。もし8曲もプレイしてたなら、それはもう大変なことだ。でも俺はもう『なんなんだよ、これは何かマジですごいものがあるぞ』みたいになってた。そしてみんなそう気づいた。誰もがそれに気づいてたんだ」
ほとんどのバンドがセメントブロックのように足をしっかりと踏みしめて立ってひたすら曲を演奏している中で、ジェラルド・ウェイはマイクを手にした瞬間に恥ずかしさを払拭し、ベテランのフロントマンのように会場を盛り上げていた。会場にはステージがないので、彼は前後に移動しながら、できるだけ多くのフロアスペースを確保した。彼のライブでの姿は、彼が影響を受けたアーティストから少しずつヒントを得ていた。ジェフ・リックリーの痛々しい感情表現、Iron Maidenのブルース・ディッキンソンのオペラのようなメタルの壮大さ、モリッシーの尊大さ、そしてニュージャージーの優れたバンドのようなもの、Misfitsのグレン・ダンジグの悪霊のような陰鬱さだ。
ウェイは「Thank you for the venom」と書かれた自作のシャツを着ていた。この言葉は、後にバンドの曲のタイトルにもなった彼の造語だ。「Iron Maidenじゃないなら、自分のバンドのシャツを着てはいけないっていうジョークがあったんだ」とサーベドラは言う。「でも、あの子たちは最初から自分たちののシャツを着てた。Iron Maidenのようになるんだと自信を持ってたんだね」。
「ジェラルドは特に、自分がなりたいものになって構わないんだっていう自信に溢れてたね」とアイエロは言う。「不思議なことに、彼は舞台裏ではすごく内向的で照れ屋なんだよ。でもステージに上がると何かが開放されるんだ」。それ以来アイエロはマイケミのライブを必ず見るようになり、自分が彼らの一番のファンだと思った。彼はトライステートエリアの軍人会館、VFW、小さなクラブで行われるすべてのショーに確実に顔を出し、バンドの友人や家族、ガールフレンドからなる少人数の中核メンバーの一人となった。
「彼らはデモを配ってて、そのCD-Rにはマイキーのメールアドレスが書いてあったんだ」とアイエロは思い出す。「この曲には何か特別なものがあった。俺は何度も何度も再生しては『なんでこんなにいいんだよ?このキッズたちはどこからともなく現れて、この3曲を組み合わせて、でもそれがものすごく素晴らしいんだ』って言ってた。当時の他のどの作品とも違ってた。ボーカル音声がちょっと異質だったんだ。レイからくるクラシックの影響もあった。彼のコード進行は突き抜けてたよ。そしてもちろんジェラルドの歌がそれを際立たせてた」
地元で11回のライブを行った後、My Chemical Romanceは自分たちのサウンドに何か足りないものがあると考えた。トロは腕のいいギタリストだが、一人で演奏するには限界がある。2人目の腕のいいギタリストを加えればバンドのトーンを強化できると考えたのだ。さらに、ステージであがり症ではないメンバーが加われば、ライブが盛り上がるかもしれない。
リックリーの提案で、彼らはアイエロを誘うことを検討した。Pencey Prepが解散することになってその年のCBGBでの最終公演を終えた後だったので、彼を引き抜くには絶好のタイミングだったのだ。アイエロはすでにマイケミの曲を知っていたし、彼は大好きなパンクバンドBlack Flagからインスピレーションを得ている混沌として予測不可能なステージングパフォーマンスをしていた。
アイエロは当初、高校時代から一緒に音楽活動をしてきたPencey Prepの仲間が参加していない新しいプロジェクトに参加することに違和感を覚えた。しかし、My Chemical Romanceの魅力に抗うことはできなかった。「どういうわけか、何となくだけど、みんなマイケミが何か重要なことをするんじゃないかと思ってたんだ。でも、友達を置いていくのは気持ち悪いし、申し訳ないと思ってた。それと同時に、マイケミは世界中で一番好きなバンドだった。子供の頃から大好きなバンドに誘われたようなもんだよ。考えるまでもなかった」。
「4ピースバンドだったところにフランキーが加入しました」とルウィティンは言う。「彼はすごくスターで、私は彼がバンドに加わったことを喜んでいました。なぜなら、観客の視線は皆ジェラルドに向いていましたが、どこかで誰かが彼を和らげる必要がありました。それはステージに立つことを恐れていたマイキーではなかったんです。ドラマーのオッターは良かったのですが、兄弟みたいで存在感がない。レイは技術的には素晴らしかったのですが、フランキーのようにオーディエンスを魅了することはできません」
アイエロは、バンドのリズムセクションを厚くしただけでなく、時折出す悲鳴のようなバックアップボーカルで、ニューブランズウィックの地下室でよく聞かれるスクリーモサウンドのような、My Chemical Romanceにハイテンションなハードコア要素を加えた。彼はバンドのワイルドカードとなり、いつもバスドラムから飛び降りたり、フロアで転げ回ったりしていた。
アイエロが加入してすぐ、デビューアルバムのレコーディングのためにナダ・スタジオに入った。バンドは初めての公式スタジオでの経験を、クリスマスを迎える子供のように楽しんだ。ナダ・スタジオは、エンジニアのジョン・ナクレリオの母親の家の地下にある小さなスタジオだった。天井は低く、部屋は狭く、レコーディングブースへのアクセスは洗濯機置き場からでだった。しかし、本物のミキシングボードと防音壁を目の当たりにして、バンドはプロのロックスターになった気分になった。
「そこはホームスタジオだったけど、彼らにとっては "Electric Lady(電気ハーレム)"みたいなものだったんだ。特にレイはまるで子供のようにはしゃいで、とても興奮してたよ」とサーベドラは振り返る。「彼の足が震えていて、それがレコーディングに影響していることが何度もあった。私達は『おい、ちゃんとやれよ!』みたいに言って、そうすると彼は『わかったよ、ごめんて!俺すごい興奮してるんだ!』なんて言ってたね」。
2週間分のレコーディング時間の予算しかなかったので、バンドはデビューアルバム『I Brought You My Bullets, You Brought Me Your Love』を急いで完成させた。メンバーの多彩な音楽的嗜好から生まれた11曲は、バラバラで不揃いだが、それが彼らの魅力でもあった。"Early Sunsets Over Monroeville "は、Promise Ring風の90年代エモへの5分間のオマージュだ。疾走感のあるパンクビートの「This Is the Best Day Ever,」は、敬愛するジャージーのベテランLifetimeからヒントを得ている。最も構造的にバラバラなトラック「Honey, This Mirror Isn't Big Enough for the Two of Us」は、トランスミッションが壊れた車のように突然スタイルを変えていく。ピュアなメタル賛美のリフがメロディックな詩に溶け込み、ランダムに耳障りなスクリームが散りばめられ、リスナーに様々な影響を与えている。
バンドの未熟なエネルギーはたくさんのセレンディピティ(偶然の産物)を生み出したが、ルウィティンが母親の送迎の車から降りた時、彼女は初めての経営危機に直面した。彼女のバンドのシンガーからまともなボーカルが取れないということだった。「アレックスは、『ジェラルドからレコーディングできないんだ。彼の耳には何か問題があるし、気分も悪そうだ。私たち金がないから、1日でも惜しいのに』みたいに言っていました。私にも1ドルもないので困っていました。スタジオを延長することもできません」。
「彼は耳がひどく痛くて、頭痛も起こしていた」とサーベドラは言う。「彼に何が起こっているのか誰も分からなかった。あいつは本当に苦しんでいたけど、私たちはこのレコードを完成させなければならなかった。ERに連れて行っても『どこも悪くありませんね!』と言われるばかりだったんだ」。
「それで、車に出て行って、母にどうしたらいいか聞いたんです」とルウィティンは振り返る。「母は『今すぐジェラルドを車に乗せて。病院に行くのよ!』って。私達が病院に着くと、母はスタッフに『今すぐ彼を連れて行って!彼はレコード製作中で、やり遂げなければならないの!今すぐ彼を診なさい!』と言いました。彼は結局、歯根やいくつかの歯の治療が必要だったのですが、母は彼と一緒に待ちたいと言い、ずっと彼のそばに付き添っていました。それ以来、私の55歳のエジプト人の母はジェラルドに恋してしまったのです。」
ウェイの顎が腫れたことで、スタジオではちょっとしたマジックが起こった。シンガーの手術後の痛みが強くなるにつれ、ボーカルが平坦で感情がこもっていないように感じられた。「私は、彼がやっていることに満足できなかった。私もアレックスも」とリックリーは言う。「アレックスが彼の痛み止めの薬を盗んで、これ以上薬を飲まないでレコーディングしてくれと言っていた」。
ウェイからバイコディンを奪い、何度も叱咤激励した後、サーベドラはもう1つやる気を起こさせる方法を試した。「私は彼の顔をぶん殴った。最初は気絶するまで殴るつもりでいたが、彼には十分ショックだったようだ。今にして思えばとても狂った行為だったが、その時はそれが意味を成した。彼の中のマゾヒストは、それを本当に楽しんでいたように思えた。間違いなく痛いんだろうが、それが彼を興奮させたんだ。別の種類の痛みだろうね。彼はその直後にボーカルテイクを成功させたんだ」。
サーベドラの拳は、ウェイのパフォーマンスを向上させただけではなかった。後にMy Chemical Romanceの活動に欠かせない考え方をシンガーの頭に叩き込んだのである。ウェイは、時には痛みを受け入れなければならないことを学んだ。
ルウィティンは若くて経験も浅かったが、彼女のハッスルぶりは、新しいバンドを支えるのに良いマネージャーになった。彼女は、マンハッタンで一晩に3回のライブをこなすためにネットワークを駆使し、日中はネットで音楽のゴシップを流していた。バンドの超多忙なマネージャーは、キーボードでMy Chemical Romanceを絶賛していた。アトランティック・レコードでA&Rを担当していた友人や、SPINやNMEでライターをしていた友人にバンドのデモ曲をメールで送り、Thursdayの掲示板にバンドのことを書き込み、流行に敏感な人たちにメッセージを送った。その結果、A&Rの話題の中心であるHits Daily Doubleにバンドが掲載されることになったのだ。その後、バンドの曲は音楽業界を駆け巡り、いつの間にか彼女はMy Chemical Romanceのことを誰にも話さなくてもよくなっていた。人々が彼女のところにやってくるようになったのだ。
「レーベルの人たちから突然電話がかかってきたんです。ループ・ラウンジで演奏するバンドを見るために、ニューヨークに飛んでくる人たちが突然現れました。Island Def Jamのロブ・スティーブンソンは、IslandのライバルがThursdayと契約していたので、マイケミとの契約に興味を持っていたのです。ものすごい高速で動いていました。一晩でゼロから120になったんですよ」と彼女は言う。
インターネットでバンドを知ったのは、業界関係者だけではなかった。バンドのメンバー、特にSidekickにハマっていたマイキー・ウェイは、インターネットを上手に利用する第六感を持っており、ネット上のあらゆる場所で新しいファンを集めていた。バンドの名前は、TheNJSceneのような地元の掲示板や、Friendster、Live Journal、Makeoutclubのようなソーシャルネットワーキングサイトで広まった。My Chemical Romanceの宣伝は昔ながらの方法である口コミで広がっていったが、インターネットという設備のおかげでそれは急速なペースで進んでいったのだった。
「マイキーはオンラインで生活していました。インターネットは、彼らにとって非常に大きな存在でした。人々はそれで彼らのことを知ったのです。彼らのウェブサイトにはEPを載せて、人々は曲や断片をダウンロードすることができました。彼らの音楽をデジタルで広める機会があれば、私たちはそうしたんです。私は彼らのライブでグッズを売ったり、ウェブサイトを紹介したり、キッズたちがメーリングリストに登録しているか確認したりしていました。私は座って全員のメールアドレスを入力して、ニュースレターの更新を送信していました」とルウィティンは言う。
Eyeball Recordsが2002年7月23日に『I Brought You My Bullets,』をリリースした頃には、My Chemical Romanceはすでにすべてのレコード会社の口に上っていたように思えた。「すべてのレーベルが私に声をかけてきて、私はバンドをミーティングに連れ出していました。すべてがあっという間で、何の苦労もなかった」とルウィティンは振り返る。
「ついにある日、バンドが私に会いたいと言ってきたのです」と彼女は続ける。「彼らからは『僕たちはきみが大好きだし、きみはは素晴らしいと思っているし、きみがしてくれたこと全てに感謝してるよ。でもきみは僕たちを追い詰めすぎてるように思うんだ。多すぎるし、早すぎるんだ。きみは僕たちを大物にしようとしてくれてるけど、僕たちはまだ大物になる準備ができてない。僕たちはパンクバンドでいたいし、成長していきたいし、それを急ぐルートは取りたくないんだよ』と言われました。これは最高のクビの言い方でしょうね。「あなたは良い仕事をしすぎてる」と言われるのですから。とても驚きましたが、恨み言を言うことはできませんでした。彼らのビジョンや目標を尊重しています。マイキーとの別れと同じように、私もできる限りこのバンドを助け続けたいと思っていました。だから、SPINでの仕事が決まったとき、彼らのことを記事にする機会があれば書き続けました」。
「当時は、サラは彼らにとって最適なマネージャーではないと思いましたよ」とリックリーは言う。「でも、振り返ってみると、彼女は彼らの考え方に大きな影響を与えていました。彼女は、バンドの両性具有的だったり女性的な部分を受け入れるよう、彼らを後押ししました。だから、彼らの判断に対する彼女の貢献を過小評価するのは大きな間違いです」。
しかし、ルウィティンが解雇された後も、バンドにはチャンスが巡ってきました。Bulletsがリリースされた直後の8月、ペンシルバニア州アレンタウンの近くでJuliana TheoryとJimmy Eat Worldのオープニングを務めるCoheed and Cambriaの代役を務めるという、土壇場でのオファーがあった。しかしそれは中規模のクラブやホールではなかった。Jimmy Eat Worldは、大ブレイクした年のおかげで、広大なフェアグラウンドを埋め尽くすことができたからだ。Capitol Recordsから出された2つの失敗作を経て、アリソン出身の彼らは次作『Bleed American』の制作を自費で行った。紛れもなく親しみやすいレコードだったので、レーベルは再び嗅ぎつけたのだった。
ドラマーのザック・リンドは、「素材が良いという口コミが広まっていた」と言う。「Hollywood Recordsが興味を示し、MCAが欲しがり、Sireが欲しがり、Atlanticが欲しがった。Capitolもまた興味を示した。まさに "FOMO "(*注:fear of missing outの略。取り残される不安・恐怖のこと)だったよ」。あまりにも激しく追求されたため、最終的にはプロデューサーのマーク・トロンビーノがスタジオのドアに鍵をかけなければならなくなるほどだった。競り合いの勝者となったDreamWorksは、バンドのシングル「The Middle」が成功を収め、その甘いコーラスのおかげでラジオのトップ40に入ったことで、投資がすぐに報われた。この曲はビルボードでトップ5に入るヒットとなり、バンドがアレンタウンで演奏することになった月に、「Bleed American」はプラチナ・ディスクを獲得した。
「それが(マイケミの)最初の挫折だった。当時、Jimmy Eat Worldは大ヒットしていた」とサーベドラは言う。My Chemical Romanceは、駐車場に車を停めて、他のアーティストの巨大なバスに混ざって、自分たちのチープなレンタルバンがいかに滑稽に見えるかを見た瞬間に、自分たちの手に負えないことを悟った。「ステージマネージャーが来て『ステージプロットはあるのか?』と言ってきて、彼らは「ああ。ちょっと待ってね」みたいに答えてた。そして戻ってきて『あの、すみません…ステージプロットって何です?』って。彼らはベビーバンドだった。あんなステージで演奏したことがなかったんだ。ホーボーケンの小さなホールやマックスウェルで演奏していて、舞台装置について何も知らなかったんだ」。
My Chemical Romanceがニュージャージーのエルクスロッジの数十人の前で演奏することに躊躇していたのだとしたら、アレンタウンのフェアグラウンドに集まった何千もの人々を見た彼らは気絶するほど恐怖しただろう。しかし石化していたとはいえ、目の前の顔を見たときのジェラルド・ウェイは憑かれたように別人になっていた。巨大なステージに圧倒されることなく、むしろそれが彼を刺激したのである。
「私と女友達たちはステージ横から見ていましたが、とても怖かったですね。私達は彼らをジャージーの公民館のような小さな小さなステージでしか見たことがありませんでした。私はCB'sでの演奏を一度だけ見たことがあります。でも、ついにマイケミを彼らにふさわしい大きなステージで見ることができたのです」とルウィティンは言う。
アイエロは緊張のあまり、最初の数分間は目を閉じていた。バンドは「Headfirst for Halos」を演奏した。Rushの曲から刻まれたような数学的なギターのイントロは、アリーナやスタジアムを揺らすために作られたものだ。途中でアイエロが顔を上げると、大勢の人たちがビートに合わせて飛び跳ねていた。「観客が跳ねてたことを覚えてるよ。俺たちみんなで顔を見合わせて、"まじか、何千人もの人がここにいる。クレイジーだ!』って。今までで最大のショーで、最高の反応を得て、俺たち最高の気分だったよ」。
My Chemical Romanceは、その夜初めてロックのスターダムを体験し、夢中になった。それ以来、バンドは毎晩この感覚を得るために、どれだけの時間と労力と信念を費やしても必要なことをなんでもしようと誓った、とアイエロは言った。
「そのショーで初めてサインをしたんだ」とアイエロ続ける。「そのときは、なんだか変な気分だった。俺なんかがこれにサインしちゃだめなんじゃないか。俺はここにいるべきじゃないんじゃないか』と思ってた。そうしたら友人のエディーが『よく考えてみろよ、もしお前がこの子だったら、これにサインしてもらいたいって思うはずだよ』と言ってくれたんだ。それで俺は自分の名前を書いたんだけど、その子は『もっと何か書いてくれない?』って言うんだ。だから俺は『Keep the faith』って書いたよ」。
Sellout: The Major-Label Feeding Frenzy That Swept Punk, Emo, and Hardcore』からの抜粋です。
(1994–2007). Copyright © 2021 by Daniel Ozzi. Published and reprinted by permission of Mariner Books, an imprint of HarperCollins LLC. All rights reserved.